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一 邊地徃生をとぐるひと、つゐには地獄におつべしといふこと。この条、なにの證文にみへさふらうぞや。學生だつるひとのなかに、いひいださるることにてさふらうなるこそ、あさましくさふらへ。經論正教をばいかやうにみなされてさふらうらん。信心かけたる行者は、本願をうたがふによりて、邊地に生じてうたがひのつみをつぐのひてのち、報土のさとりをひらくとこそ、うけたまはりさふらへ。信心の行者すくなきゆへに、化土におほくすゝめいれられさふらうを、つゐにむなしくなるべしとさふらうなるこそ、如来に虚妄をまふしつけまひらせられさふらうなれ。

一 佛法の方に、施入物の多少にしたがて大小佛になるべしといふこと。この条、不可説なり不可説なり。比興のことなり。まず佛に大小の分量をさだめんこと、あるべからずさふらうか。かの安養浄土の教主の御身量をとかれてさふらうも、それは方便報身のかたちなり。法性のさとりをひらひて長・短・方・圓のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・黒のいろをもはなれなばなにをもてか大小をさだむべきや。念佛まふすに、化佛をみたてまつるといふことのさふらうなるこそ、大念には大佛をみ、小念には小佛をみるといへるか。もしこのことはりなんどにばし、ひきかけられさふらうやらん。かつはまた檀波羅蜜の行ともいひつべし。いかにたからものを佛前にもなげ、師匠にもほどこすとも、信心かけなばその詮なし。一紙半錢も佛法のかたにいれずとも、他力にこころをなげて、信心ふかくば、それこそ願の本意にてさふらはめ。すべて佛法にことをよせて、世間の欲心もあるゆへに、同朋をいひをどさるゝにや。 


 

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