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一 一文不通のともがらの念佛まふすにあふて、なんぢは誓願不思議を信じて念佛まふすか、また名號不思議を信ずるかといひおどろかして、ふたつの不思議を子細をも分明にいひひらかずして、ひとのこゝろをまどはすこと。この条かへすがえすもこゝろをとゞめておもひわくべきことなり。誓願の不思議によりて、やすくたもちとなへやすき名號を案じいだしたまひて、この名字をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、まづ弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまひらせて生死をいづべしと信じて、念佛のまふさるゝも、如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆへに、本願に相應して實報土に徃生するなり。これは誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名號の不思議も具足して、誓願・名號の不思議ひとつにして、さらにことなることなきなり。つぎに、みづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、徃生のたすけさはり、二樣におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこゝろに徃生の業をはげみてまふすところの念佛をも自行になすなり。このひとは名號の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、邊地・懈慢・疑城胎宮にも徃生して、果遂の願のゆへにつゐに報土に生ずるは、名號不思議のちからなり。これすなはち、誓願不思議のゆへなれば、たゞひとつなるべし。
一 經釈をよみ學せざるともがら、徃生不定のよしのこと。この条すこぶる不足言の義といひつべし。他力真實のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ、念佛をまふさば佛になる、そのほかなにの學問かは徃生の要なるべきや。まことに、このことはりにまよへらんひとは、いかにもいかにも學問して本願のむねをしるべきなり。經釈をよみ學すといへども、聖教の本意をこゝろえざる条、もとも不便のことなり。一文不通にして、經釈のゆくぢもしらざらんひとの、となへやすからんための名號のおはしますゆへに易行といふ。學問をむねとするは聖道門なり、難行となづく。あやまて學問して名聞・利養のおもひに住するひと、順次の徃生いかゞあらんずらんといふ證文もさふらうべきや。當時専修念佛のひとゝ聖道門のひと、法輪をくはだてて、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなりといふほどに、報敵も出できたり、謗法もおこる。これしかしながら、みづからわが法を破謗するにあらずや。たとひ諸門こぞりて、念佛はかひなきひとのためなり、その宗あさしいやしといふとも、さらにあらそはずして、われらがごとく下根の凡夫、一字不通のものゝ、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じさふらへば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします。たとひ自餘の教法すぐれたりとも、みづからがためには器量およばざればつとめがたし。われもひとも生死をはなれんことこそ、諸佛の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからずとて、にくい氣せずば、たれのひとかありて、あだをなすべきや。かつは諍論のところにはもろもろの煩惱おこる、智者遠離すべきよしの證文さふらふにこそ。故聖人のおほせには、この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、佛ときおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。また、ひとありてそしるにて、佛説まことなりけりと、しられさふらう。しかれば徃生はいよいよ一定とおもひたまふなり。あやまてそしるひとのさふらはざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんともおぼへさふらひぬべけれ。かくまふせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。佛のかねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとのうたがひをあらせじと、ときおかせたまふことをまふすなり、とこそさふらひしか。いまの世には、學文してひとのそしりをやめ、ひとへに論義問荅むねとせんと、かまへられさふらうや。學問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の廣大のむねをも存知して、いやしからん身にて徃生はいかゞなんど、あやぶまんひとにも、本願には善悪浄穢なきおもむきをも、とききかせられさふらはゞこそ、學生のかひにてもさふらはめ。たまたまなにごころもなく本願に相應して念佛するひとをも、學文してこそなんどいひをどさるること、法の魔障なり、佛の怨敵なり、みづから他力の信心かくるのみならず、あやまて他をまよはさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こゝろにそむくことを。かねてあはれむべし、弥陀の本願にあらざることを。
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