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一 親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念佛まふしたることいまださふらはず。そのゆへは、一切の有情はみなもて世ゝ生ゝの父母兄弟なり。いづれもいづれもこの順次生に佛になりてたすけさふらうべきなり。わがちからにてはげむ善にてもさふらはゞこそ、念佛を廻向して父母をもたすけさふらはめ。たゞ自力をすてゝ、いそぎさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなりと[云ゝ]。
一 専修念佛のともがらの、わが弟子ひとの弟子といふ相論のさふらうらんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふらう。そのゆへは、わがはからひにて、ひとに念佛をまふさせさふらはゞこそ、弟子にてもさふらはめ、弥陀の御もよほしにあづかて念佛まふしさふらうひとを、わが弟子とまふすこと、きはめたる荒凉のことなり。つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるゝことのあるをも、師をそむきてひとにつれて念佛すれば、徃生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心をわがものがほにとりかへさんとまふすにや。かへすがえすも、あるべからざることなり。自然のことはりにあひかなはゞ、佛恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと[云ゝ]。
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